桜まつりの歩み
大正 9年
権現堂(行幸)堤に桜の植樹が行われた。3,000本、長さ6km。当時の事は国民新聞(大正9年11月25日付け)に紹介される
大正10年
権現堂川では、舟運が盛んに行われ、大正から昭和初期にかけて三十石積みの荷船から百三十石積みの高瀬舟まで総数三十艘もの船があり、物資の集積・集散の拠点として栄えた。
(写真 権現堂川の帆船、入船)
大正11年
大正9年に植えられた桜に花もつき、堤上からは富士山や筑波山を眺める事ができ、春にはそよ風に揺れる油菜や若草の中に安らぎを求めて人々が集まり花見をするようになる。
(写真 若草摘みと客待ちの人力車)
大正13年
権現堂堤の桜も各地に紹介され、脚光を浴びるようになり、露店や屋台も軒を連ね、多くの人手があり賑やかになる。
(写真 山田 常吉氏寄贈)
大正14年
権現堂堤の桜を見ようと周辺各地から多数の人手があり、中には東京より江戸川を船で上り、花見に来る客もいた。
(写真 権現堂堤の花見 竹村房子氏所蔵)
昭和 3年
桜の花も見事に咲き、露店も数多く並び祭りの賑やかさが伺うことができる。
(写真 加藤 健氏所蔵)
昭和 4年
東京日日新聞 幸手権現堂(行幸)堤の桜まつりを紹介。
東武線幸手駅開設 そこぬけ屋台を引き回し、桜堤にくり出す。
(写真 小路精蔵氏所蔵)
昭和 7年
露天商も軒を連ね、小屋がけをし芝居などの興行も行われた。幸手の町中には検番があり芸者を呼ぶ人たちもいた。
この頃には、東武線浅草駅から幸手駅まで臨時電車が出た。
昭和 8年
幸手青年団 権現堂(行幸)堤 観桜事業を行う。
救護、交通整理、観桜客の便宜、湯茶の接待等
(手当て・日当四十銭、幸手町補助金・百円、商工会補助金・十円、茶菓子代・一日五銭)
(打ち上げ・自転車旅行 筑波山 雨引観音 笠間稲荷神社)
昭和10年
栗橋より西関宿にいたる桜堤 東京市 緑地区域に予定される。
幸手町青年団 花見の際交通整理・清掃などを行う。
昭和15年
周辺各地には、製糸工場などが多く、桜の季節には工場の小旅行として幸手駅より桜堤まで行列ができた。
昭和18年
戦争中でも当地では花見は実施していた。
昭和20年
戦後米軍の幸手進駐にて桜を伐採する。
(燃料として全戸に配給)
昭和24年
桜の植栽を始める。幸手町長栗田亀造氏、公民館職員など。
(3,000本の苗木を国道4号線から県道にかけて約1kmの堤に植えられる。現在約1,000本が残っている。)
昭和26年
幸手町保勝会によって各種行事を計画、実施した。ハイキングコースの設定・桜堤開き・演芸会・演奏会・舞踏大会など。
昭和28年
埼玉新聞が行った「県下“観光50選”」に推薦され、30選に入選した。これを機会に保勝会が桜60本を増殖。
昭和29年
埼玉新聞主催「県下桜コンクール」第4位、東関脇に。
昭和30年
雪洞(ぼんぼり)に電灯を点けたため夜桜の鑑賞も。また、観光協会が設立された。会長 殿塚町長、副会長 中村昌功会長
昭和32年
全日本写真連盟・朝日新聞浦和支局共催の写真撮影会を実施。
昭和34年
郷土芸能の公開も行われる。川崎の囃子と面神楽・千塚の手踊り・一ッ谷の飴屋踊り・関宿囃子など。
昭和39年
幸手青年団によりバンド演奏も行われお花見の人出も増した。
(写真 幸手町青年団バンド演奏)
昭和40年
民謡踊り大会チンドン屋大会、写生大会、俳句大会、撮影大会、素人のど自慢大会、ヘラブナ釣り大会、川柳大会、素人演芸大会、大演芸会等の各種の行事が行われた。
昭和45年
桜の花は最高、しかし、人出は最低。地元の人が大宮、野田、上野方面に花見に出かけるので、観光協会では権現堂堤の桜の宣伝に力を入れた。
昭和58年
行幸堤・権現堂堤が幸手町指定文化財(名勝)となる。
昭和59年
観光協会によって「さくら娘コンテスト」が行われる。
昭和62年
北公民館オープン。「さくら娘コンテスト」は「ミスさくらコンテスト」に。
昭和63年
周辺農地に菜の花を作付け。19,000平方メートル(約19反)